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宮川春汀さんって、知ってる?

 渥美半島観光ビューローのブログをご覧の皆さま、こんにちは♬

ちょこっと登場した『宮川春汀(みやがわしゅんてい)』のことを・・・。


宮川春汀さんってね、かいつまんで言うとね。
①田原市福江町(旧・畠村)出身の挿絵画家さんでね。
②自分の故郷である渥美半島のすばらしい景色や人々の温かさが大好きでね。
③詩人や文豪仲間であった柳田國男、田山花袋、太田玉茗などに、伊良湖岬を訪れるきっかけを与えた人でね。
④その柳田國男が、流れ着いた椰子の実を見つけてくれてね。
⑤この柳田国男の話に心を打たれた島崎藤村が、詩歌『椰子の実』を書いてくれてね。
⑥作曲家の大中寅二さんが曲を作ってくださってね。
⑦唱歌『椰子の実』が誕生した・・・というね。。。
彼・宮川春汀なくしては、唱歌『椰子の実』はなかったんじゃないか・・・って、
そんな要(かなめ)の人物なんじゃないかな~と、そんな人♬
(↑これは、おかぴ個人的な主観が入っております。)

今回は、そんな『宮川春汀』の素敵な画集を、田原市博物館さんからお借りしたので、
皆さんに紹介させていただきたいと思います。


『挿絵画家 宮川春汀展   
 編集・発行:田原市博物館 発行:平成22年8月28日』より引用

『肉筆画』

『口絵・挿絵』
★こちらの画集は、田原市博物館さんよりご寄贈いただき、めっくんはうす1階の観光案内所でご覧いただけます。
どうぞお気軽にお声がけください。

◆宮川春汀の生涯◆

宮川春汀は、明治6(1873)年11月11日、畠村(現在の田原市福江町)の当地きっての豪商であった渡辺家の次男として生まれ、守吉と名づけられました。生家の渡辺家は、代々長右衛門か五郎右衛門を名乗り、畠湊の河岸通り(福江町下地)で廻船業と薬種問屋を営んでいました。その昔、身分の高い人たちの宿に使われた事から地元では「宿本(しゅくもと)」あるいは「お宿(しゅく)」と敬称され、後にはその屋号が「宿本屋」と呼ばれるようになりました。かの伊能忠敬が沿岸測量のため、享和3(1803)年に畠村を訪れた際には、ここに宿泊したことが記録されています。
14歳となった守吉は、こちらも畠村の旧家で当時絶家となっていた宮川善左衛門の名跡を継ぎ、宮川の姓を名乗ることになりました。この宮川家も畠村七党(宮川、天野、荒木、松野、竹本、朽木、戸田)の流れを汲み、南北朝時代には、原の島へ潮音堂が建立された際に、その開基に助力し、現在の潮音寺(福江町)が寺格を持った際にもこの家が中興開基者となって大きな功績を残したとされた家でした。

明治23(1890)年、17歳の時、幼少の頃からの夢であった画家を目指して東京に行き、挿絵界で活躍していた画家富岡永洗の弟子となりました。そこで一生懸命に画を勉強した守吉は、師匠より最初「蓬斎洗圭」の名前をもらい、「風俗画報」という雑誌に初めての挿絵が掲載されました。その後、作品の制作が軌道に乗り始めた明治28(1895)年に「春汀」と改名して、宮川春汀が誕生しました。
その名を春汀とした翌年からは、錦絵(色刷りの浮世絵版画)にも挑戦します。春汀の錦絵は、特に子どもの遊びや生活の様子を描いたものや美人画にすぐれ、その名は徐々に知られるようになりました。しかし春汀は、熱中していた錦絵の制作を5年でやめ、以後は再び挿絵画家としての道を進むこととなりました。

明治30(1897)年、結婚をきっかけにその新居を本郷に移した春汀は、ここで多くの文人たちと交流を深めることとなりました。春汀は、詩人の太田玉茗と親友になり、玉茗の部屋に集まる友人たちに自分の故郷である渥美半島のすばらしい景色や人々の温かさについて話をしました。その話に関心を持った柳田國男、田山花袋、太田玉茗などが後に伊良湖岬を訪れることとなりました。

明治32(1899)年になると、大手雑誌社であった博文館から少年文学関係雑誌への挿絵の仕事が増え、明治37年からは、大人向けの小説などの挿絵も担当するようになりました。

明治38(1905)年、不幸にも最愛の長女を電車事故で亡くした春汀は、挿絵画家ではなく、日本画家としての活躍を夢見るようになります。しかし、これに失敗すると芸術上の悩みも加わり、ノイローゼのような状態になってしまいます。こうして、大正3(1914)年に病気となった春汀は、その年の7月26日に41歳という若さで亡くなりました。


上記、田原市博物館の解説より引用させていただきました。

田原市博物館のご担当の方々に、多くのご協力をいただきました。

ありがとうございました♬


田原市博物館のHPはこちら→→→→★★★★★

➡➡➡https://www.taharakankou.gr.jp/spot/000037.html


ちなみに、唱歌・椰子の実』の関連記事も、ぜひ読んでみて~(^▽^)/

➡➡➡https://www.taharakankou.gr.jp/blog/002015.html





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朝の連ドラ『ちむどんどん』で話題(^▽^)/♬ 抒情詩『椰子(やし)の実』を知って欲しい~♬

渥美半島観光ビューローのブログをご覧いただきありがとうございます(^▽^)/
今日はちょこっと、国語の勉強しませんか✨✨
抒情詩『椰子の実(やしのみ)』を、ぜひ皆さんに知っていただきたいです~♬
***********************************************************************
『國民歌謠』第三輯 日本放送協會ラヂオ・テキスト(昭和十一年十一月五日発行)に収録の歌詞。
 「實」「舊」など旧漢字が使われています。


【島崎藤村と柳田國男の関係】
 島崎藤村の親友の柳田國男(やなぎたくにお・のち民俗学者)は、東京帝国大学(現・東京大学)の学生の時、知り合いの画家から風光明媚な地と聞いた愛知県渥美半島の伊良湖で一ヶ月余りを過ごしました。
 
 ある日の早朝、伊良湖岬の恋路ヶ浜で、南の島から黒潮に乗って何年もかかって浜辺に打ち上げられている椰子の実に遭遇しました。
 帰京して、その感動を島崎藤村に話した所、心を動かされた藤村は、椰子の実の漂流の旅に故郷を離れて居を転々としてさまよう“漂泊の詩人”である自らの憂いを重ね、この詩を書きました。
 詩の五~七連には、特に藤村の思いが込められているように思います。
 
 明治三十三年(1900年)、雑誌『新小説』六月号に「海草」という総題の五篇の詩の一篇「其二」として発表しました。
翌年、詩集『落梅集』(明治三十四年八月二十五日、春陽堂刊)では独立した作品「椰子の実」として収録。
 柳田國男は民俗学者になる以前は、松岡國男という詩人で、島崎藤村とは新体詩の仲間でした。
官界に進んだ後も、島崎藤村、山田花袋、国木田独歩、蒲原有明など文学者との交流は続きましたが、大正時代に入ってから、当時の文学、特に自然主義や私小説のありようを次第に嫌悪するようになっていったそうです。
 東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れる内に次第に民俗的なものへの関心を深めていきました。

  柳田國男著『海上の道』(筑摩書房)昭和三十六年(1961年)七月発行に、「椰子の実」や「島崎藤村」の事などの経緯が詳しく書かれています。

 【柳田國男著『海上の道』】岩波文庫24 ・25ページより抜粋】
 “途方もなく古い話だが、私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河(みかわ)の伊良湖崎(いらござき)の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風の経験をしたことがある。(中略)
 
 今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾(すそ)を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。
一度は割れて真白な果肉の露(あら)われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。
 この話を東京に還(かえ)ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。
今でも多くの若い人たちに愛誦(あいしょう)せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。
   そを取りて 胸に当つれば新たなり 流離の愁ひ
 という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽のものになった。”


 【「あゆの風」について】
 「あゆの風」は「東から吹く風」「あゆ=東風」のこと。
文中には「東へまわって」「東おもての」「東やや南に面して」と、東から浜に吹く風を思わせる描写があります。
  例・「英遠(あお)の浦に寄する白波いや増しに立ち重(し)き寄せ来(く)あゆをいたみかも」 (万葉・一八・四〇九三)
  訳・英遠の浦(=富山県氷見(ひみ)市北部ノ海岸)に寄せる白波は、ますます立ち重なって打ち寄せる。東風が激しいからだろうか。
 百田宗治作詞、草川信作曲の『どこかで春が』の歌詞には、「山の三月、東風(こち)吹いて」があります。
この場合の「こち=東風」は、春風のことです。俳句では春の季語です。
「東風(こち)」は、現代の子どもには理解できない言葉になっているので、小学校の教科書では「そよかぜ」と改作した歌詞を掲載しています。「東風(こち)」と「そよ風」では詩から受けるイメージが違います。
「東風(こち)」の説明文を添えて、原作のまま歌わせてほしいものですね。
  例・「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」 (菅原道真が左遷された時の歌)。
  【「明治三十一年」説について】
 まず、柳田國男著『海上の道』に「明治三十年の夏」「大学二年生」と書かれている事実は動かしがたい。それなのになぜ、「明治三十一年」説があるのでしょうか。
  これは、柳田國男の年譜を見ると理解できます。大学への入学年が「明治三十年」になっています。つまり「明治三十年」は「大学一年生」です。
 そして、東京帝国大学で一年を終えての夏季休暇・・・ということで、明治三十一年だと推察されますよね。 

※では、内容を戻します。

  “柳田國男が「伊良湖岬」の漁村に滞在したのは、明治三十一年(1898年)七月、夏の一ヶ月余り(約五十日間)で、
東京帝国大学で一年を終えた夏季休暇の時であった。
 柳田に「伊良湖岬」を紹介したのは、当地出身の画家の宮川春汀
で、彼の語る故郷の素朴な民情に心を引かれた柳田は、伊良湖村の小久保惣三郎の離れ座敷に仮寓し、夏期休暇を送った。
 滞在中、一夏にわたって近在の村々や神島へと足を伸ばし、風景明媚な自然や、素朴な村人たちとも親好を深め見聞を広めた。
「恋路ヶ浜」に流れ着いた「椰子の実」を見つけたのはこの時の事だった。「椰子の実」は島崎藤村が執筆した詩である。

 一八九八年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年生だった柳田國男がこの地に一ヶ月滞在した時、
「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、この詩を書いた。
 一九三六年(昭和十一年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった「国民歌謡」の担当者が、作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。”


 また、椰子の実をひろった柳田國男が逗留した網元の家(柳田は離れ座敷を間借りしていた)は、現在・伊良湖シーパーク&スパの敷地内にあるんだそうです。
 ★「日本民俗学の父 柳田國男逗留の地碑」は、伊良湖シーパーク&スパの入口の所にあります。

【歌曲「椰子の実」の誕生の物語】
「椰子の実」は島崎藤村が執筆した詩である。
一八九八年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年生だった柳田國男がこの地に一ヶ月滞在した時、
「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」
といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、
この詩を書いた。
一九三六年(昭和十一年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった「国民歌謡」の担当者が
作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。

読んでくださって、ありがとうございました♬
おかぴでした♪(´ᵕ`๑)۶⁾⁾

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朝の連ドラ『ちむどんどん』で話題(^▽^)/ 唱歌『椰子の実(やしのみ)』の作曲者・大中虎二さんの・・・

渥美半島観光ビューローのブログをご覧の皆さま、こんにちは♬
いつも、渥美半島観光ビューローのブログをご覧いただき、ありがとうございます。


 今日は、最近朝の連ドラで歌われている『唱歌 やしの実』のご紹介です。
渥美半島観光ビューローでは、今年で35回目(35年目)となる、『やしの実』イベントがあります。
実は、4年前のpart32の時の交流会の一幕のご紹介です♬

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ちょっと長文になりますが、どうぞお付き合いください♬

 やしの実流しの懇親会のなかで、素敵な歌声をご披露いただきました。
歌ってくださった方は、大中香代さん
大中さんは、このイベントのきっかけである、唱歌椰子の実』を作曲された、大中寅二さんの奥さまなのです。
会場の全員に、『椰子の実』の歌詞が配られ、みんなで合唱させていただきました。
 私も幼少の頃から、幾度となく『椰子の実』を歌ってきましたが、こんなに温かい気持ちで『椰子の実』を歌ったことは、初めてでした。

島崎藤村、大中寅二さんを想いながらの『椰子の実』の合唱。。。
本当にとても素敵な、あたたかい時間でした。

 また、大中さんは、ご出身の母校で、こんな会談もされていらっしゃいます。

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愛のココナッツメッセージ Part.34 ヤシの実投流‼️

渥美半島観光ビューローのブログをご覧の皆様、こんばんはー‼️
「愛のココナッツメッセージPart.34」のヤシの実達が、昨日、石垣にて投流されました‼️


『愛のココナッツメッセージ事業』
 この事業は、伊良湖岬・恋路ヶ浜が舞台となった島崎藤村の抒情詩“やしの実”の再現を目指し、行われています。
「♬~名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る椰子の実1つ~♬」。
詩の一節の「遠き島」を石垣島に見立て、約1,600キロ離れた恋路ヶ浜に流れ着くことを願い、
夢と浪漫をこめた「やしの実」を投流します。
 旧渥美町観光協会が1,988年(昭和63)年に始めて、今年で34回目のこの事業。
渥美半島・恋路ヶ浜への漂着を夢見て・・・‼️


【波にのせ 想いは遥か恋路ヶ浜】
こう刻まれたプレートが付いたやしの実54個を、
「恋路ヶ浜に届け‼」と願いを込めて、海に投げ入れて頂きましたよー‼️

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唱歌『椰子の実』のこと♫

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渥美半島観光ビューローのブログをご覧のみなさま、こんにちは😊✨✨
いつもご覧いただき、ありがとうございます♬

今日は、抒情詩『椰子の実』、唱歌『椰子の実』のことを、ぜひ知ってください♬
『國民歌謠』第三輯 日本放送協會ラヂオ・テキスト(昭和十一年十一月五日発行)に収録の歌詞。
 「實」「舊」など旧漢字が使われています。


【島崎藤村と柳田國男の関係】
 島崎藤村の親友の柳田國男(やなぎたくにお・のち民俗学者)は、東京帝国大学(現・東京大学)の学生の時、知り合いの画家から風光明媚な地と聞いた愛知県渥美半島の伊良湖で一ヶ月余りを過ごしました。
 
 ある日の早朝、伊良湖岬の恋路ヶ浜で、南の島から黒潮に乗って何年もかかって浜辺に打ち上げられている椰子の実に遭遇しました。
 帰京して、その感動を島崎藤村に話した所、心を動かされた藤村は、椰子の実の漂流の旅に故郷を離れて居を転々としてさまよう“漂泊の詩人”である自らの憂いを重ね、この詩を書きました。
 詩の五~七連には、特に藤村の思いが込められているように思います。
 
 明治三十三年(1900年)、雑誌『新小説』六月号に「海草」という総題の五篇の詩の一篇「其二」として発表しました。
翌年、詩集『落梅集』(明治三十四年八月二十五日、春陽堂刊)では独立した作品「椰子の実」として収録。
 柳田國男は民俗学者になる以前は、松岡國男という詩人で、島崎藤村とは新体詩の仲間でした。
官界に進んだ後も、島崎藤村、山田花袋、国木田独歩、蒲原有明など文学者との交流は続きましたが、大正時代に入ってから、当時の文学、特に自然主義や私小説のありようを次第に嫌悪するようになっていったそうです。
 東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れる内に次第に民俗的なものへの関心を深めていきました。

  柳田國男著『海上の道』(筑摩書房)昭和三十六年(1961年)七月発行に、「椰子の実」や「島崎藤村」の事などの経緯が詳しく書かれています。

 【柳田國男著『海上の道』】岩波文庫24 ・25ページより抜粋】
 “途方もなく古い話だが、私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河(みかわ)の伊良湖崎(いらござき)の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風の経験をしたことがある。(中略)
 
 今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾(すそ)を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。
一度は割れて真白な果肉の露(あら)われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。
 この話を東京に還(かえ)ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。
今でも多くの若い人たちに愛誦(あいしょう)せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。
   そを取りて 胸に当つれば新たなり 流離の愁ひ
 という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽のものになった。”


 【「あゆの風」について】
 「あゆの風」は「東から吹く風」「あゆ=東風」のこと。
文中には「東へまわって」「東おもての」「東やや南に面して」と、東から浜に吹く風を思わせる描写があります。
  例・「英遠(あお)の浦に寄する白波いや増しに立ち重(し)き寄せ来(く)あゆをいたみかも」 (万葉・一八・四〇九三)
  訳・英遠の浦(=富山県氷見(ひみ)市北部ノ海岸)に寄せる白波は、ますます立ち重なって打ち寄せる。東風が激しいからだろうか。
 百田宗治作詞、草川信作曲の『どこかで春が』の歌詞には、「山の三月、東風(こち)吹いて」があります。
この場合の「こち=東風」は、春風のことです。俳句では春の季語です。
「東風(こち)」は、現代の子どもには理解できない言葉になっているので、小学校の教科書では「そよかぜ」と改作した歌詞を掲載しています。「東風(こち)」と「そよ風」では詩から受けるイメージが違います。
「東風(こち)」の説明文を添えて、原作のまま歌わせてほしいものですね。
  例・「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」 (菅原道真が左遷された時の歌)。
  【「明治三十一年」説について】
 まず、柳田國男著『海上の道』に「明治三十年の夏」「大学二年生」と書かれている事実は動かしがたい。それなのになぜ、「明治三十一年」説があるのでしょうか。
  これは、柳田國男の年譜を見ると理解できます。大学への入学年が「明治三十年」になっています。つまり「明治三十年」は「大学一年生」です。
 そして、東京帝国大学で一年を終えての夏季休暇・・・ということで、明治三十一年だと推察されますよね。 

※では、内容を戻します。

  “柳田國男が「伊良湖岬」の漁村に滞在したのは、明治三十一年(1898年)七月、夏の一ヶ月余り(約五十日間)で、
東京帝国大学で一年を終えた夏季休暇の時であった。
 柳田に「伊良湖岬」を紹介したのは、当地出身の画家の宮川春汀
で、彼の語る故郷の素朴な民情に心を引かれた柳田は、伊良湖村の小久保惣三郎の離れ座敷に仮寓し、夏期休暇を送った。
 滞在中、一夏にわたって近在の村々や神島へと足を伸ばし、風景明媚な自然や、素朴な村人たちとも親好を深め見聞を広めた。
「恋路ヶ浜」に流れ着いた「椰子の実」を見つけたのはこの時の事だった。「椰子の実」は島崎藤村が執筆した詩である。

 一八九八年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年生だった柳田國男がこの地に一ヶ月滞在した時、
「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、この詩を書いた。
 一九三六年(昭和十一年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった「国民歌謡」の担当者が、作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。”


 また、椰子の実をひろった柳田國男が逗留した網元の家(柳田は離れ座敷を間借りしていた)は、現在・伊良湖シーパーク&スパの敷地内にあるんだそうです。
 ★「日本民俗学の父 柳田國男逗留の地碑」は、伊良湖シーパーク&スパの入口の所にあります。

【歌曲「椰子の実」の誕生の物語】
「椰子の実」は島崎藤村が執筆した詩である。
一八九八年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年生だった柳田國男がこの地に一ヶ月滞在した時、
「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」
といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、
この詩を書いた。
一九三六年(昭和十一年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった「国民歌謡」の担当者が
作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。

今日も読んでくださって、ありがとうございました♬

おかぴでした♪(´ᵕ`๑)۶⁾⁾

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やしの実、漂着報告‼

渥美半島観光ビューローのブログをご覧の皆さま、おはようございます♬

やしの実1つめの漂着から約1か月。
その際のブログがこちら→→→★☆★GO!!★☆
その後、この1か月の間に、4つのやしの実が、各地に届いていますので、ご報告申し上げます。
ご報告を楽しみにしていただいた方には、ご心配をおかけし、すみませんでした。


2つ目のやしの実🌴
こちらは、奄美大島の、ほの星海岸。
拾ってくださった方は、大鷲さまです。
『天候が悪く、テンションが低かった時に、「せっかくだから」と、浜を散策。
たくさんの漂流物の中に、丸いやしの実を発見しました。
プレートを見て、超テンションが上がりました~♬』
と、お話を聞かせてくださいました。
ありがとうございました😊😊😊


3つ目のやしの実🌴
こちらは、三重県の合歓リゾート海岸。
拾ってくださった方は、松岡さま親子です。
『なんだろう?よくある投流されたものかな?
拾った日は、息子のお誕生日。とても良い記念になりました。』
と、お話を聞かせてくださいました。
ありがとうございました😊😊😊


4つ目のやしの実🌴
こちらは、宮崎県の熊野江町。
拾ってくださった方は、サーフィン中のTさまです。

『やしの実を足で転がしてみたら、プレートが付いているのを見つけました。』
と、お話を聞かせてくださいました。
ありがとうございました😊😊😊


5つ目のやしの実🌴

こちらは、東京都の八丈島・大潟浦。
拾ってくださった方は、浅沼さまです。
『仕事の休憩中に、海岸を散歩していて見つけました。』
と、お話を聞かせてくださいました。
ありがとうございました😊😊😊
名も知らぬ遠き島(に見立てた石垣島)から、こんなに遠くまで、各地へ・・・。
漂流して漂流して・・・流れ着いてくれました😊

 いや~~~本当に感動ですね~😂!!!
浪漫ですね~😂。素敵ですね~😊😊😊!!!

 とはいえ、私たちの一番の希望は、やっぱる、ここ恋路ヶ浜に漂着してくれること‼
さて、次のやしの実🌴は、いったいどこに流れ着いてくれるでしょうか。
私たちの夢と浪漫は、まだまだ続きます~😃

『やしの実拾ったよ』報告、まだまだ募集中です。
こうご期待(*'▽')♬

関連記事
夢と浪漫の『愛のココナッツ・メッセージ PART32』

リンク

『あつみ』に綴られた『やしの実』

渥美半島観光ビューローのブログをご覧の皆さま、こんにちは♬
あちらこちらで、梅雨明け宣言がされ始めましたね。
東海地方も、そろそろでしょうか😉

 とはいえ、夏休みは、この田原市でも、始まりました♬
夏休みといえば、海・山・花火、スイカにメロン!!そして、やっぱり『夏休みの宿題』!!
学生の皆さんは、夏休みの宿題!・・・順調にすすんでいますか(^^)

 さて、今日は、そんな『夏休みの宿題』のなかから・・・です。
『愛のココナッツ・メッセージ』にまつわる、素敵な作文をご紹介させていただこうと思います。
 
『おばあちゃんのやしの実』
 作文を書いてくださったのは、当時・中学3年生の河合風南さんです。
風南さんの95歳になるひいおばあちゃんと、11歳の女の子とを結びつけた「1つのやしの実」。
SNSで人と人が容易に繋がることができる昨今、接点のない年齢も離れた二人が、波にのり、流れ着いたやしの実で巡り合う。。。
 奇跡に近いこのできごとを、中学生である風南さんが、彼女自身の思いや将来像をのせて、作文としてしたためてくれました。

 ほっこりと心温まる、素敵な作文に仕上がっていますので、ぜひ読んでみてください😉
◆風南さんの作品  1ページ  2ページ  3ページ

『海を漂うやしの実には、持ち主一人一人の
 「いったいどこの海岸に流れつくのだろう。」
 「知らない誰かが見つけてくれるかな。」
 という、淡い望みと、大きな期待が込められています。
 私は、他の人が大切に思う気持ちを、自分のことのように大切だと共感できる大人になろうと心に誓い、
 誰かの大切なやしの実が流れ着いていないか、また海岸へ探しに行こうと思います。』
   文中より引用。  ★作品・お名前とも、ご本人の許可を頂戴し、掲載させていただいております。
**************************************************************
『あつみ 第49号』より引用
 編集:田原市国語主任者会 発行:田原市教職員会国語部会 2019.2.12発行

 ◆本記事掲載にあたり、ご尽力いただきました、田原市図書館さん、某小学校さん、ご協力ありがとうございました♬◆

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1つ目のやしの実、漂着‼

やしの実、漂着‼
 来ました・来ました~!!!
名も知らぬ遠き島(に見立てた石垣島)から、遠路はるばるやしの実が来てくれました~~~!!!
ジャジャジャジャーン!!!
この子です!!!
第一号で着いたのは、東京都八丈島のヤケンヶ浜海水浴場🌴


つまり、名も知らぬ遠き島(に見立てた石垣島)から、こんなに遠くまで、漂流して漂流して・・・流れ着いてくれたんです‼

 いや~~~すごいですね~😂!!!
浪漫ですね~😂。素敵ですね~😊😊😊!!!

 とはいえ、私たちの一番の希望は、ここ恋路ヶ浜に漂着してくれること
さて、2つ目のやしの実🌴が、いったいどこに流れ着いてくれるでしょうか。
私たちの夢と浪漫は、まだまだ続きます~😃
 こうご期待(*'▽')♬

関連記事
夢と浪漫の『愛のココナッツ・メッセージ PART32』

リンク

『椰子の実』を唄う。

渥美半島観光ビューローのブログをご覧の皆さま、こんにちは♬
いつも、渥美半島観光ビューローのブログをご覧いただき、ありがとうございます。


 今日、ご紹介するのは、先日の『愛のココナッツメッセージ Part.32』イベントでの、とても素敵な一幕です。
ちょっと長文になりますが、どうぞお付き合いください♬

 やしの実流しの懇親会のなかで、素敵な歌声をご披露いただきました。
 歌ってくださった方は、大中香代さん
大中さんは、このイベントのきっかけである、唱歌椰子の実』を作曲された、大中寅二さんの奥さまなのです。
会場の全員に、『椰子の実』の歌詞が配られ、みんなで合唱させていただきました。
 私も幼少の頃から、幾度となく『椰子の実』を歌ってきましたが、こんなに温かい気持ちで『椰子の実』を歌ったことは、初めてでした。
島崎藤村、大中寅二さんを想いながらの『椰子の実』の合唱。。。
本当にとても素敵な、あたたかい時間でした。
 また、大中さんは、ご出身の母校で、こんな会談もされていらっしゃいます。

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このページを見ていただいたご縁に、ぜひとも♬
抒情詩『椰子の実』、唱歌『椰子の実』のことを、皆さんに知っていただけますと嬉しいです♬
『國民歌謠』第三輯 日本放送協會ラヂオ・テキスト(昭和十一年十一月五日発行)に収録の歌詞。
 「實」「舊」など旧漢字が使われています。


【島崎藤村と柳田國男の関係】
 島崎藤村の親友の柳田國男(やなぎたくにお・のち民俗学者)は、東京帝国大学(現・東京大学)の学生の時、知り合いの画家から風光明媚な地と聞いた愛知県渥美半島の伊良湖で一ヶ月余りを過ごしました。
 
 ある日の早朝、伊良湖岬の恋路ヶ浜で、南の島から黒潮に乗って何年もかかって浜辺に打ち上げられている椰子の実に遭遇しました。
 帰京して、その感動を島崎藤村に話した所、心を動かされた藤村は、椰子の実の漂流の旅に故郷を離れて居を転々としてさまよう“漂泊の詩人”である自らの憂いを重ね、この詩を書きました。
 詩の五~七連には、特に藤村の思いが込められているように思います。
 
 明治三十三年(1900年)、雑誌『新小説』六月号に「海草」という総題の五篇の詩の一篇「其二」として発表しました。
翌年、詩集『落梅集』(明治三十四年八月二十五日、春陽堂刊)では独立した作品「椰子の実」として収録。
 柳田國男は民俗学者になる以前は、松岡國男という詩人で、島崎藤村とは新体詩の仲間でした。
官界に進んだ後も、島崎藤村、山田花袋、国木田独歩、蒲原有明など文学者との交流は続きましたが、大正時代に入ってから、当時の文学、特に自然主義や私小説のありようを次第に嫌悪するようになっていったそうです。
 東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れる内に次第に民俗的なものへの関心を深めていきました。

  柳田國男著『海上の道』(筑摩書房)昭和三十六年(1961年)七月発行に、「椰子の実」や「島崎藤村」の事などの経緯が詳しく書かれています。

 【柳田國男著『海上の道』】岩波文庫24 ・25ページより抜粋】
 “途方もなく古い話だが、私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河(みかわ)の伊良湖崎(いらござき)の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風の経験をしたことがある。(中略)
 
 今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾(すそ)を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。
一度は割れて真白な果肉の露(あら)われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。
 この話を東京に還(かえ)ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。
今でも多くの若い人たちに愛誦(あいしょう)せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。
   そを取りて 胸に当つれば新たなり 流離の愁ひ
 という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽のものになった。”


 【「あゆの風」について】
 「あゆの風」は「東から吹く風」「あゆ=東風」のこと。
文中には「東へまわって」「東おもての」「東やや南に面して」と、東から浜に吹く風を思わせる描写があります。
  例・「英遠(あお)の浦に寄する白波いや増しに立ち重(し)き寄せ来(く)あゆをいたみかも」 (万葉・一八・四〇九三)
  訳・英遠の浦(=富山県氷見(ひみ)市北部ノ海岸)に寄せる白波は、ますます立ち重なって打ち寄せる。東風が激しいからだろうか。
 百田宗治作詞、草川信作曲の『どこかで春が』の歌詞には、「山の三月、東風(こち)吹いて」があります。
この場合の「こち=東風」は、春風のことです。俳句では春の季語です。
「東風(こち)」は、現代の子どもには理解できない言葉になっているので、小学校の教科書では「そよかぜ」と改作した歌詞を掲載しています。「東風(こち)」と「そよ風」では詩から受けるイメージが違います。
「東風(こち)」の説明文を添えて、原作のまま歌わせてほしいものですね。
  例・「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」 (菅原道真が左遷された時の歌)。
  【「明治三十一年」説について】
 まず、柳田國男著『海上の道』に「明治三十年の夏」「大学二年生」と書かれている事実は動かしがたい。それなのになぜ、「明治三十一年」説があるのでしょうか。
  これは、柳田國男の年譜を見ると理解できます。大学への入学年が「明治三十年」になっています。つまり「明治三十年」は「大学一年生」です。
 そして、東京帝国大学で一年を終えての夏季休暇・・・ということで、明治三十一年だと推察されますよね。 

※では、内容を戻します。

  “柳田國男が「伊良湖岬」の漁村に滞在したのは、明治三十一年(1898年)七月、夏の一ヶ月余り(約五十日間)で、
東京帝国大学で一年を終えた夏季休暇の時であった。
 柳田に「伊良湖岬」を紹介したのは、当地出身の画家の宮川春汀
で、彼の語る故郷の素朴な民情に心を引かれた柳田は、伊良湖村の小久保惣三郎の離れ座敷に仮寓し、夏期休暇を送った。
 滞在中、一夏にわたって近在の村々や神島へと足を伸ばし、風景明媚な自然や、素朴な村人たちとも親好を深め見聞を広めた。
「恋路ヶ浜」に流れ着いた「椰子の実」を見つけたのはこの時の事だった。「椰子の実」は島崎藤村が執筆した詩である。

 一八九八年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年生だった柳田國男がこの地に一ヶ月滞在した時、
「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、この詩を書いた。
 一九三六年(昭和十一年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった「国民歌謡」の担当者が、作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。”


 また、椰子の実をひろった柳田國男が逗留した網元の家(柳田は離れ座敷を間借りしていた)は、現在・伊良湖シーパーク&スパの敷地内にあるんだそうです。
 ★「日本民俗学の父 柳田國男逗留の地碑」は、伊良湖シーパーク&スパの入口の所にあります。

【歌曲「椰子の実」の誕生の物語】
「椰子の実」は島崎藤村が執筆した詩である。
一八九八年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年生だった柳田國男がこの地に一ヶ月滞在した時、
「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」
といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、
この詩を書いた。
一九三六年(昭和十一年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった「国民歌謡」の担当者が
作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。

今日も読んでくださって、ありがとうございました♬
おかぴでした♪(´ᵕ`๑)۶⁾⁾

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やしの実投流証明書

 渥美半島観光ビューローのブログをご覧の皆さま、こんにちは♬
いつも、渥美半島観光ビューローのブログをご覧いただき、ありがとうございます。

 今日は、『愛のココナッツメッセージ』『やしの実会員』になっていらっしゃる方から、
嬉しいご報告をいただきましたので、紹介させていただきますね。

 先日、やしの実の投流をしてきたことは、皆さまにご報告させていただきました。
実はこの際、「やしの実を投流してきたことをご報告するお葉書」を、石垣島からお出しします。
 そして今日、やしの実会員の方から、『投流証明書が届きました~♬』と、ご丁寧に、お喜びのご連絡をいただいたのです‼
『今年、このイベントを新聞で知って、恋路ヶ浜に流れ着いたら素敵だな~と、やしの実会員に申し込み、やしの実を購入してみました。恋路ヶ浜に届くの、楽しみにしてます♬』
と、弾んだ、嬉しそうなお声。
『あ、すでに届く前提で話してますね~。図々しいですね~私♬』
いえいえ、とんでもないです。そのお気持ちが、幸運を呼び寄せるんだと思いますよ。
 
ご連絡をいただいた私たちまで、思わず笑顔になりました。
元気をおすそ分けをいただいたような、そんな気分です。
ありがとうございました♬
 
 夢と浪漫と、元気をもらえる『愛のココナッツメッセージ』事業。
今年度の受付はすでに終了していますが、ご興味がある方は、ぜひ来年度、ご応募くださいませ。

(石垣市♡田原市の背景と歴史)********************************

「♪名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実ひとつ♪」という島崎藤村の抒情詩。

明治31年のこと。民俗学者の柳田國男(当時は松岡國男)が渥美半島を訪れた際、

恋路ヶ浜で拾った椰子の実の話を、親友である島崎藤村に語り、この詩が生まれたといいます。

 この後、昭和11年の大中寅二の作曲により、国民歌謡として広く愛されるようになりました。

 渥美半島観光ビューローでは、この詩を再現しようと、名も知らぬ遠き島を沖縄県石垣島に見立てて、毎年6月頃、椰子の実を投流するイベントを行っています。

1988年から始まる「やしの実投流事業」を通して相互の交流関係を深め、現在に至ります。
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 今日も読んでくださって、ありがとうございました♬
おかぴでした♪(´ᵕ`๑)۶⁾⁾
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